024: 悟りと徳

はい、おはようございます。

テープ100回聞き終えて、
くれてありがとうございます。
これは100回聴いてくれた人に
聞いてもらいたいテープです。

どういうことかっていうとですね、
『悟りの段階』ってのがあるんだけど、
みんなが言ってる悟りというものを
誤解してる人がいるんです。

それで、悟るっていうと、
ああ心が穏やかになるんだ、
幸せな気分になるんだ、
悩み事とかなくなちゃうんだ。
っていうのを悟りっていうふうに
思ってる人いるだけど、
それは悟りではないんです。

だって、その事ってずっと聞いてると、
自分が落ち着いた気持ちになって大らかになって、って。
ずーっと、自分のことを言ってるんだよね。
終始一貫、自分のことを考えてる人っていうのは、
それエゴっていうの。
で、そういうことじゃないんだよって。

例えば、自分の親とか兄弟とか周りいいる人居るよね?
で、そういう人にたとえばウチの
100回聞きのテープ聞きなって渡すよね?
そうすると、渡さない人もいるよね?
「あの人達は聞いてもしょうが無いのよ」
「分かりっこないし聞かないよ」って。
でもそれって徳じゃないよね?って。

「お母さんコレ聞きな」って言って、
あなたはちゃんと徳を積んだんだよね?
聞かないのは向こうの問題だよね?
どうせ聞かないわよってやらないことが徳がないんだよね。

じゃあ渡すとするよね?
「私渡してきました」って言う人いるけど、
それは渡さないよりは徳は1点なんだよね。
でも、ずーっとこうやって見てて
「ウチのお父さんって
すごい犬猿主義でそういうの聞かないのよ」って。
だとしたら、方便だよ?
「このテープって事業家の人たちが
1本100万円で取引してるんだよ」
って、ね?
「本当にすごいのよ、私も聞いてビックリした」
って言ったら、相手は聞くかもわからない。
それから、若い子で芸能界の人とか大好きな人に
「芸能界の人たちでこれ聞いてる人多いんだよ」って。
ほんとに多いんだよ?
芸能界の人とか事業家の人で聞いてる人多いんだよ。

だから、それをどういう風に言ったら
相手が聞きたくなっちゃうだろうか?
そのことを一生懸命考えるの。
で、そのことって自分にとっては
一銭にも得にならないよね?
で、一銭の得にもならないことを、
どうしたらあの人は聞いてくれるだろうか?って
ジーっと考えてて、こうだよって言って…
随所随所に人のために愛のある言葉を、
人によってパッパッと使い分けられる。

お釈迦様で言うと、
お釈迦様って自分が悟ったから良いんだって
幸せそうな顔して生きてたんじゃないんだよ?
ちゃんとお弟子さんたちを集めた時に、
ものすごく宇宙の大真理からなにから
ものすごく深遠なことがあるじゃない?
その深遠なことを、私は弟子になりたいんですって
学問も何もないお百姓さんが来たとすると、
「いいかい?麦を収穫したかったら麦の種をまくよね?
それって当たり前だよね?」って。
「あなたが幸せになりたかったら、
相手を幸せにしてあげる徳をまけば、
絶対に徳が出てきてそれを刈り取る日がくるんだよ」
って教えてあげるの。
「変なことしたり人に嫌がらせなんかしたら、
それがやがて実って刈り取らなきゃならないんだよ」
って、お釈迦様は一生懸命教えたんだよ。

それを、「俺は悟ったんだ」
とかって言ってるのって居ないんだよ。
悟った後、人様のお役にどうしたら立てるだろうか?って、
死ぬまでお釈迦様は弟子連れて歩いてて、
で、横になって、横になった時ですら、
まわりにお弟子さんがいっぱいいたんだよ。
最後死ぬ前に、涅槃になって、
死ぬ姿…死ぬ前まで教えてたんだよ。
みんな、死ぬ前まで「何かお言葉を」
って言って待ってたんだよ。
そこまであの人は尽くしてたんだよ。
自分が悟って「ああ、悟ったんだ」とか、
言ってるんじゃないんだよ?ね?

どうせ聞いても分かんないのよとかって、よしな?
だって心を治すためのものなんだよ?
あの人は病人だから
うちの病院にはいれないって言ってるのと同じなんだよ?
で、あの人のことは私、
親でも兄弟でも親戚でも嫌いなのよって。
嫌いってなんなんですか?って言ったら
自分で自分の機嫌を取れない人だから嫌いなんでしょう?って。
全力を尽くさない人だから嫌いなんでしょ?って。
徳のない人だから嫌いなんでしょ?って。
知らないんだよ、相手は。
その人たちにポッと教える。
そのときに、
「どうしたら聞いてくれるか?」
この事をジーっと人様のために考える。
それで、一生懸命おこなう。

みんながやらないのは、
自分にとって一銭にもならないし
得じゃないからでしょ?って。
得じゃないことはしないっていう人を、
徳がない人だっていうの、ね?

悪い行いをして出てくる結果をカルマっていうの。
良い行いをすると、それをダルマっていうの。
ダルマさんのダルマっていう言葉ね。
あれは良い因果を積む。
良いことをするね、それをダルマっていうの。

人間って、前世から持ってきたもの、
今世自分が作っちゃった悪いもの…
これを変えるのを、
「ダルマの行い」って言うんだよ。
で、このダルマの行いをズーッとしてるじゃない?
これをズーッと行ってると、
悪いことが解消されてくるの。

それで、一個だけ覚えといてもらいたいのは、
こういう話を聞くと、
どこどこのなんとかっていうエライ人が居て、その人が
「あなたのカルマを解消してあげるのに、
こういう呪法を行えばいいんだ」
「こういう呪法をやってあげるからお金を出しなさい」
とかって言うけど、
悪い因果を解消するのは、
「自分が」徳を積むしかないんだよ?
それをお金を出して解決してあげるって
言ってる奴もおかしいけど、
お金を出したら済むと思ってる方がおかしいんだよ?

因果が金で買えるワケがないんだよ?
そういう事を思ったり考えることが、
因果を積んでることなの。
それより良い行いをして
自分で自分の笑顔をちゃんとして、
人様にできる事をして、相手のために、
「このテープをこの人に聞かせるにはどうしたらいいだろう?」
って、そういう事を真剣に考えて、
「この人にはコレなんだ」って。ね?

いくら、政治家が好きで
「政治家でもこういうの聞いてる人いるのよ」
って言ったら上手くいったからって言って、
18歳とか19歳で政治家なんかに興味のない人間にも
同じ事言ってたらおかしいでしょ?って。

でも一生懸命徳を積もうとして
失敗しちゃうことがあるの。
失敗しても
「あ、あそこが私、失敗だったんだ。だからココを変えよう」
「今度この言い方を変えよう」
って言って、すぐ起き上がらなきゃいけないの。
だからダルマさんって、七転び八起きってことは、
100回転んでも100回起き上がるんだよ。
それで段々段々、うまくなってくるの。

ダルマの行いでも、
「イヤ~昨日ちょっと失敗しちゃったんだよ」って、
で、失敗する度に
「まったくアイツはダメなんだから」
って人のせいにしたら、もうそれは徳じゃないんだよ。
「自分の言い方が未熟だったんだ。今度はこうしよう」って、
相手のためにそこまで考えられる…ね?
コレ聞きなって渡しといたのよって、それ徳1点だよ?
それで、100点くらいの徳を積んだくらいのつもりでいるけど、
本当にそうじゃないよね?

相手のために相手が聞きたくなっちゃうような方便を言って、
だからお釈迦様のところには色んな人が来たの。
たしか八十いくつくらいで死んだと思うんだけど、
あの当時だったらものすごい高齢なんだよ。
で、涅槃に入ってる時までお弟子さんが来てたんだよ。
ズーッと法を説いてたんだよ。
木こりも来れば、政治家も来る。
王様まで来るんだよ。
すると、王様には王様に分かるように、
乞食の人もいる、ライ病の人もいるんだよ。
そういう人に対してはどうしたらいいだろう?って
ズーッとやり続けてたんだよ。

で、自分が幸せになってこのテープ100回聞きました、
自分が出来るようになりましたなんて、1なの。
自分の幸せばっかり考えてる人はエゴだよ?
エゴと悟りはエライ違いなんだよ?
人様の役に立ちだしたら、
悟りの道にどんどんどんどん入っていくの。
で、本当にそれが幸せなの。
これ宗教的な話じゃないんだよ?
心の問題なの。仕事でもそうなの。
どうしたらもっというだろうか?

心の問題だから、
どんどんどんどんそれをやっていけばいいの。
それで、本当にこのテープも100回聞いてください。
100回聞くと、ああそうだよなって。
分かる人たちだからこそ、
100回聞きのテープを終えたんだと思うの。

未熟なもの同士がみんな集まって、
また頑張ってやっていきましょう。
よろしくお願いしまーす。

(>>>11:00~)

はい、えー、付随説明です。

今の方便のところで、
「このテープは事業家の間で
1本100万円で取り引きされてるんだよ」
っていうのは、嘘を言ってるんじゃないんですよ?
本当にこのテープの元版っていうのは、
これで講演会のテープが出来ちゃうくらいで、
正直いうと、何千とか何万枚って売れちゃうんです。
だから金額にすると
100万円やそこらの問題じゃないんですよ?

で、方便っていうのは、
嘘をついてもいいっていうことじゃないんですよ?
相手に解りやすい説明をしてあげるということで、
どういう説明をしたら相手が分かってくれるかな?
っていう意味のことを言ってるんですよ。
だから、方便と嘘とは違うんですよ。
相手のことが、解りやすい、愛情を持って
どうして説明したらいいかな?
っていう事だから、そのことを勘違いしないで下さいね。

よろしくお願いしまーす。